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名句鑑賞

2017年7月17日 (月)

【名】今生の汗が消えゆくお母さん/古賀まり子

この句を初めて読んだのは、お義母さんのお見舞いにケアセンターに入る前に、
お昼を食べに向かいの喫茶店に入った時だった。
お義母さんが喜ぶので毎回持参している、『NHK俳句』のテキストに載っていて、
注文したオムライスが来るまでの時間にページをめくっていた私は、
不意を衝かれて思わず涙ぐんでしまった。
いつもならカウンター越しにスプーンやお味噌汁を渡す、喫茶店の”お母さん”が、
わざわざ後ろに回って届けにきてくれた。
私があんまり何度も涙をぬぐっているので、「何を読んでいるんだろう」と思ったのだろう。
そして納得したのだろう。
何も話しかけることなく、”お母さん”はカウンターに戻って行った。

俳句には主観を持ち込むべきではない、と教わった。
この句も、ただ目の前の母の姿を描写しているだけである。
だが、この一句を読み下した時、胸に溢れるこの思いはどうだろう!
十七音に凝縮された人生、言葉に出来ない思いがなだれ込み、
「ゆっくり休んで・・・」と手を握りしめたい気持ちになる。

藤田湘子の本にあるように、ゆっくり、五・七・五を区切って読むと、この句の感動はさらに大きくなる。

「今生の、汗が消えゆく。・・・お母さん」

冷静な観察から一転、絞り出すような「お母さん」。
語尾を震わせずに読むことが出来る人が、果たしているだろうか?
そう思うほど、生々しく魂を揺さぶる一句である。

2016年12月31日 (土)

【名】只の年またくるそれでよかりけり/星野麥丘人

『俳句ポスト』兼題「波郷忌」の時に、
門下生の1人としてけんGさんがご紹介下さった星野麥丘人。
そしてこの記事を読み、一発で大ファンになってしまいました。
何と肩の力の抜けた、自然体の詠みでしょう。
年末年始の感慨句と言えば、真っ先に思い出されるのは

去年今年貫く棒の如きもの    高浜虚子
ともかくもあなたまかせの年の暮 小林一茶
ゆく年のゆくさきのあるごとくゆく  鷹羽狩行

などではなかろうかと思われますが、
私の気持ちに一番ぴったりでしっくりきたのが星野麥丘人の句でした。
読んだ瞬間、「ほんと、そうよねえ~」と。

テニス漫画『エースをねらえ!(山本鈴美香)』にこんなセリフがあります。
主人公・岡ひろみに惚れこみ、追いかけ続けているカメラマン・千葉ちゃんの言葉です。

では美とはなにか?
『それはある種の衝撃だ』という
見る者がぼう然とする
あるいは度肝を抜かれる
そういう非凡な要素がないと人は美しさを感じない


俳句も、思わず「オオッ!eyeshine」と思わせる要素があればこそ、
人は感動し、その句を心に刻むのかも知れません。
あるいは、「何だこれ、どういうことを言ってるんだろう?」と心にひっかかりを残す、
何処かしら異質な存在感を放ち続ける句にも、我々を魅了する「何か」があります。
「驚き」「発見」「不思議」「玄妙」「優美」
そういった、読者の心にある種の衝撃を残す句に比べて、
「共感」は感動の残り具合としてはやや弱いものなのかも知れません。
余程その時に「よくぞ言ってくれました!」というようなインパクトがあれば別ですが、
「うんうん、そうそう」程度では読み流されて消えてゆくものです。

しかし、「何もない」ということを言って人を感動させることが出来るのもまた、
俳句の大きな魅力だと思っています。

ただただ時の柔らかな流れのなかに、力をいれずに身をまかせているだけです。
なんだか止め処もなく湧いてくる、この湯気のような月日だなと思いながら、
ありふれた日々のありがたさに、肩深くまで浸かっています。
よいことなんて特段起きなくていい。
生きて何事もなくすごせることの奇跡を、じかに感じていたいのです。
                 新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(松下育男)

                               『増殖する俳句歳時記』より

それ以上でもなく、それ以下でもない、真実の呟きであればこそ、
この一句はジワジワと光を放ち続けます。
「只の年/またくる/それでよかりけり」
舌に乗せた時に感じる、何とも言えない心地良さ、絶妙の脱力感。
そうか、星野麥丘人は、「完成された脱力」の会得者であったのかcoldsweats02impact
なかなかこの境地には至れません。
このように、何気なしの呟きに思えて、
実は研ぎ澄まされた「たったこれだけ言えればいい」というもの。
下五「それでよし」として中七に何らかの情報を足すよりも、
「よかりけり」との、ゆったりした着地による余韻がやはり佳いのです。



白玉やくるといふ母つひに来ず
花たのしいよいよ晩年かもしれぬ
梅雨深し金貨降る夢みたりけり
世の中にあつてよきもの金魚の日
足湯して十一月も終りけり
幸せといへば幸せ雪まろげ

2016年12月20日 (火)

【名】鳥の巣に鳥が入つてゆくところ/波多野爽波

季語:鳥の巣(三春)

先に書いた芝不器男の「寒鴉」の句とは、また別な意味で虚を衝く一句です。
「えっ?coldsweats01
と、この句を初めて目にした方の多くが思うのではないでしょうか。
そして、「鳥の巣に鳥が・・・」と記憶をまさぐり、あるいは脳内で描き出し、
尾っぽ(お尻)をふりふり巣に入ってゆく小鳥の可愛らしさに笑顔を浮かべるでしょう。
その巣は、読者によっては、小鳥自身が木の枝に拵えたものだったり、
丸い穴の開いた三角屋根の巣箱だったり、藁編みの壺巣だったりするでしょうし、
この句を知ったら、他の誰かに話を振って、
お互いにイメージを語り合って一緒に笑いたくなるような、
そんな明るさのある楽しい句だと思います。
以来ことあるごとに「何々が何かしようとするところ」と心の中でついつい詠んでしまい、
絶大な波及効果に気づいて、ひそかな戦慄を覚えることもあるかと思われます。
俳句の、ひとつの決め台詞を生み出したといっても過言ではないかも知れません。
(不勉強で、他にもっと古くからあったらすみませんsweat01
「それなら自分にも詠めるかも」と思えるような敷居の低さと、
「自分にはこんな句詠めないよ」と思わせる特異な着眼点。
そこには、感じて欲しい何かを漂わせる部分が一切ありません。
まさに「それだけ」をポンと記して寄越した純粋な「写生」の句です。
ただ、鳥の巣に鳥が入っていく、ただそれだけ。
増殖する俳句歳時記』に、こう書かれています。
通常ならば、「鳥の巣に鳥が入つてゆきにけり」としてしまいがち。
しかし、それでは、単なる事実の報告になってしまって、面白味がなくなってしまう。
下五「ゆくところ」の「ところ」という把握と描写に、的確な写生の醍醐味を感じる。
         『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)



「写生」の中に「情緒」を、という「花鳥諷詠」を説いた高浜虚子の門下生でありながら、
「情緒」をどっかに置いてきて、徹底的に「そのことだけ」を詠んだ俳人。

しかし虚子先生は言っておられます。
「どのような俳句がよい俳句か、といえば、それは(中略)渇望に堪えない句は、
単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なること水の如き句、
ボーっとした句、ヌーっとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」
・・・これ、まさに波多野爽波や高野素十のことではないかしらん、と思う次第。
高野素十の外連味のない詠みっぷりは見事で、大いに憧れるところですし、
波多野爽波も、本当に面白い句を詠む人で、原型力のある句が多い、と感じます。

西日さしそこ動かせぬものばかり
秋の夜の時計に時計合せ寝る
はじめより水澄んでゐし葬りかな
大根の花まで飛んでありし下駄
蓑虫にうすうす目鼻ありにけり
チューリップ花びら外れかけてをり
炬燵出て歩いてゆけば嵐山

一度読んだが最後、「その句が」という以上に「その詠みっぷり」が心に残り、
同じような物言いの句が、いつのまにか自分からも出て来る。
「こんなふうに詠んでもいいんだ」と、表現の幅を広げてくれる・・・。
そういえば、私が今年の秋日記タイトルに書いた「台風の前日をただ遊びけり」は、

春宵を番台にただ坐りをり  

が原型だったのかも知れません。嗚呼、素晴らしきかな波多野爽波wave
そうそう!先日読んだ「ねこのほそみち」最後の一句が波多野爽波でした。

冬空や猫塀づたひどこへもゆける

それまでいろんな猫の句、いろんなシーンが展開された後で、最後の一句にこれ。
ぱあっと目の前が開けていくようで・・・
堀本裕樹先生の抜群の編集能力にも心震えますshinelovelyshine

俳句も、きっとどこにだってゆける。
無限に広がる俳句の世界に「私も入ってゆくところ」なのです。

2016年12月10日 (土)

【名】寒鴉己が影の上におりたちぬ/芝不器男

かんがらす/しがかげのへにおりたちぬ


虚を衝く句です。
言われてみればそうなのだけど、
そんなふうに感じたこと無かった!とハっとしたのです。
まるで、自分の影を目指して着地するかのようで、
影と実体がお互いに引き合って、ついにピタリと重なるようで、
なにかイリュージョンを見ているような、不思議な気にさえなってきます。
芝不器男の句には、こういう、
句に切り取られた一瞬の前後数秒を鮮やかに想起させる力があります。
動画のような句なんです。

人入って門残りたる暮春かな
白藤や揺りやみしかばうすみどり
麦車馬におくれて動き出づ

などもそうですね。
動いていたものが止まる、止まっていたものが動き出す、動くもの、止まったままのもの。
そういう、誰もが目にしているはずの光景、
当たり前の光景が、実は不思議と驚きに満ちている。
それらを見過ごさずに詩を感じる感性が、何よりも素晴らしいと感じます。

そして、その心に浮かんだ詩篇を、とことん磨き上げる姿勢が凄いです。
「暮春」の句は実に40句以上もの推敲の後に得られたそうなのです。
「寒鴉」も、最終稿を得るまでに、何句もの推敲があったのでしょう。

「寒鴉おのれの影の上に降り」
私が同じ内容を五七五にするとこんなにグダグダにしかなりませんcrying
中七の処理が、下五を決めるのですが、私には中七を「しがかげのへに」と詠めません。
「おのれのかげのうえに」という十音を七音にまとめるにあたって、芝不器男は
ちょっと特殊な読み方(「巳」ならば音読み「シ」がありますが、「己」は「キ、コ」)をさせ、
それも鴉の持つ一種独特の高貴さ・一筋縄でいかなさを感じさせている気がします。
「おりたちぬ」という響きによって立ち上がって来る鴉の姿は、
「寒鴉」ゆえの研ぎ澄まされたフォルムであると確信出来る、美しい流線形です。
寒い時だから、現実には少し羽毛が立っているかも知れませんが、
厳しい季節を生き抜く鋭い眼差し、減量中のボクサーのようなイメージがあるのです。

この句を知ったのは、昨年の冬のことですが、
以来私は地面に鴉の姿を見る度に、この句を思い出すのです。
私に俳句を手ほどきしてくれた友人shadowが言いました。
「俳句をやっていて嬉しいのは、ふとした時に思い出す句がどんどん増えていくことだよネ」
本当に、その通りだと思いますshineconfidentshine

実体と影が一つになって、寒鴉が地面に降り立つ。
離れていた二つのものが完全に一つになり、影が実体にかえった瞬間、
そこには地面に降り立った寒鴉の不気味な姿態が、
はっきりとクローズアップしてとらえられる。
蕭条たる冬景色。
合うべきものが重なり合った時の「あっ」と声をひそめた感動。
正確無比の把握である。
表現が正確だということは、感動が正確だということだ。
微塵も曖昧さや誤魔化しのないこの句に、私は三嘆を惜しまないのである。

                           「定本現代俳句」(山本健吉)より

Photo

川鍋暁斎「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」

2016年12月 7日 (水)

【名】芋の露連山影を正しうす:その2

名句の恐ろしいところは、書けば書く程書き足りていないと感じてしまうところです。
そんな訳で、「芋の露」もう少しだけお付き合い下さいcoldsweats01

さて、初読時には、まったく何のことを言っているのか分からなかった、
飯田蛇笏の「芋の露」の句。
「対比」に気づいてから、ようやくどういうことなのか分かってきた気がしました。
それは、私の知っている少ない語彙の中で表現すれば、「矜持」です。

雄大な南アルプス連峰も、それを丸ごと抱く大地も、
我々を包み込み見守ってくれるような大きな存在です。
そこに蛇笏は「芋の露」をぶつけました。
時の流れの中では、どんなに大きく揺るぎなさを感じるようなものでも、
実はびっくりするほど儚いものなのだと突きつけてくるようです。
「芋の露」をぶつけられた「連山」はどうするか?
為すがままさと、風に吹かれているだけでしょうか?
いいえ、違います。
「連山」は、「影を正しう」するんです。
秋の澄み渡る空気の中で、自分の姿をよりはっきりと映し出すんです。

それは、飯田蛇笏の在り様なのかも知れません。
なんてカッコいい人なんだ!
やっぱり蛇笏はカッコ良かった。
さすが「くろがねの秋の風鈴」の人だった。
こうして、私は、震えるくらい蛇笏が好きになったのでした。


10月に、「定本現代俳句(山本健吉)」を買った時、
すでにこの記事を書きかけていたので、
引きずられないように「飯田蛇笏」の章を避けて読み進めました。
山本健吉の名文を読んでしまったら、きっとそれを引用して終わってしまう、と思って。
今、拙いながらも、自分の等身大の言葉を書きましたので、
最後に山本健吉の美文で締めくくりたいと思います。

芋の露連山影を正しうす

大正三年作。作者が数え年三十歳の時の句である。
現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、
誰か書いていたのを読んだことがあるが、
そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである。
(中略)
その気魄にみちた格調の荘重さ、個性の異常な濃厚さは、
蛇笏調として俳諧史上に独歩している。
(中略)
「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。

                                      (「定本現代俳句」より)

【名】芋の露連山影を正しうす/飯田蛇笏

さて、好きなので飯田蛇笏がしばらく続きますよcoldsweats01

芋の露連山影を正しうす

季語:「芋」も秋の季語だが、ここでは「露」が主格になる

これも、「秋の風鈴」と同じ時に教科書に載っていたのですが、
当時は全然分かりませんでした。
「あっ、対比の句なんだ」
と気が付いたのは、昨年秋に私の句が『現俳協ネット句会』で4点もらった時です。

月冴へて赤子の頬の匂ひかな  (る)

自分ではまったく意識していなかったんですけど、友人shadowからのメールに、
「遠くの大きいものと近くの小さなもの、冷たいものと温かいもの、硬いものと柔らかいもの」
などといった対比になっているということが書かれていて、初めて「そうだったんだ」と。
そして初めて、蛇笏の句は、
「遠いものと近いもの、大きいものと小さいもの、ぎざぎざと丸、」
などなど、まったく正反対の個性を持つものを並べてあることに気づいたのです。
この句について、蛇笏が語った部分があります。

南アルプス連峰が、爽涼たる大気のなかに、きびしく礼容をととのえていた。
身辺の植物(植物にかぎらず)は、決して芋のみではなかったのである。


爽やかに透き通る大気の中に、連なる山々の稜線がくっきりと見えます。
秋は、その透明な空気の中に、少しの曖昧さもない全きシルエットを映してくれるのです。
この時、蛇笏の周りには秋の草花がいくらでもあったはず。
蛇笏が「芋の露」を選んだのは、一枚の芋の葉の中心に収束していく露という液体が、
大地に繋がり延々と広がっていく連山の稜線に対し、どこまでも対照的だから・・・
なのではなかったかと、思ったのです。
片や雄大な南アルプスの山々という、どっしりとした存在感。
それに合わせる季語に、儚いものの代名詞である「露」。
それも、ただの「露」ではありません。
植物の中でも超撥水効果のある「芋の葉」にたまる「露」。
「繋がっているもの」に対し、「弾かれているもの」でもある訳です。
もしかすると、「実」と「虚」まであるのかも知れません。
私は、私の容量の少ない脳を揺さぶられて、眩暈がするようでした。

ただ、目の前にあったから詠んだのではなく、
連山とぶつけるにあたって最も効果的なものを選んだ。

そうだったんだ・・・と思った時、またしても私は思ったのです。
「これが俳句なんだ」と。

俳句を習った時と、俳句を始めた時。
その両方で私に大きなインパクトを与えた飯田蛇笏という俳人。
そして実は。
『俳句ポスト』を始めた時も、最初に「わあshine」と思ったのも蛇笏の句でした。
ちゃんと調べて投句しようとした、「貝寄風」の時です。

貝寄や遠きにおはす杣の神    飯田蛇笏

この時「杣」って言葉を知って、いつか使おうと思ってようやく「湿地茸」に使えたのです。
もしかすると、また次に新たな扉を開く時、そこにも蛇笏がいるのではないか、
そんなふうに感じています。



「山廬集(さんろしゅう)」

つみためて臼尻(うすじり)に撰る蓬かな
晒(さらし)引く人涼しさを言ひ合へり
草庵の壁に利鎌や秋隣り
ともしびと相澄む月のばせをかな
幽冥へおつる音あり灯取虫
冬の日のこの土太古の匂ひかな

2016年12月 6日 (火)

【名】くろがねの秋の風鈴鳴りにけり/飯田蛇笏

飯田蛇笏は、私が一番最初に好きになった俳人です。
まあ、ぶっちゃけ、国語で習って知った・・・ということもあるかもなのですけど、
それなら「万緑の~」の中村草田男が一番最初なので、
やはり、私の中に「俳句というもの」の衝撃を初めて与えてくれたのが、
飯田蛇笏だったと思う訳です。
草田男の句の時は、句に感動というより、「万緑」という言葉や、「吾子」という言い方の、
自分にとっての目新しさの方が強かったと思います。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

「くろがね」は知ってたnotes
「マジンガーZ」に「くろがねのしろ」って歌詞があって、
「鉄の城」だと誰かに教えてもらっていたから。
だから、この句は、自分にとって、全部分かる言葉で書いてあって、
そういう意味では全然「へえ~~~~」ってことはないはずなのに、衝撃だったんです。
重量感のある鉄の風鈴が、秋の風にその音色を立てた時・・・
私の心に、不思議な現象が起きました。

読んだ文章が、映像になって頭に浮かぶということはよくあるけれど、
この句は、脳裏で書道の作品になってスっスっと書きつけられていったのです。
「俳句を短冊に書きつける」というイメージがあってのことかも知れません。
つまり、私の脳が、「これが俳句だ!」とはっきりと認識したのです。
完璧でした。
この風鈴は、「くろがね」でなければならない、
そして、季節は「秋」でなければならない。
もちろん、風を受けて「鳴」らなければならない。
この、緊密に連なり合う十七音は、そうやって離れがたくひと筆に乗ったまま、
力強く、流れるように、私の中に入って来たのです。

夏の、倦んだような空気の中ではなく、
秋になって透き通ってきた空気の中でこそ、その硬質な響きが殊更感じられるのだと。

「くろがね」の重厚感に、昔気質のちょっと頑迷な男、というイメージもあり、
その男は、たとえ自分が時代おくれだとしても、
ひとたび風が吹けば凛と鳴る、反応力と気概を持ち続けている、
そんな勝手な妄想も膨らみました。
ビジュアル的には、そうですね、嘉納治五郎のような・・・

Photo_3

嘉納治五郎:1860年12月10日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日

勝って、勝ちに傲ることなく、
負けて、負けに屈することなく、
安きにありて、油断することなく、
危うきにありて、恐れることもなく、
ただ、ただ、一筋の道を、踏んでゆけ。

とまあ、そんなふうな勝手な連想(妄想)から、いつしか私の心の中には
「・・・心が弱った時、『くろがねの秋の風鈴』のような人から、投げ飛ばされたい!!!」
そんな願望が生まれて今に至っております。

これだけの名句ですので、先人の素晴らしい句評もたくさんあり、
しっかりとした知識の裏打ちなど何もない私などが、
「名句鑑賞」など片腹痛いにもホドがあると思って、ずっと躊躇していましたが、
私のブログを見に来て下さるような方であれば、きっと笑って許してくれると思い・・・

勇気をもって投下しますcoldsweats01


あ~~~・・・「名句鑑賞」というより、単純に「私の好きな句」という感じですねcoldsweats01

2016年12月 4日 (日)

【名】あっそれはわたしのいのち烏瓜/正木ゆう子

季語:烏瓜(晩秋)

画像は「きごさい」より

ごくごく細い、しかも枯れかけの蔓に、びっくりするほど大きな実。
その危なっかしい赤い実を見つけて、「あっそれは」と瞬間的に思った。
「あっそれはわたしのいのち」。
こんな山の中で、誰にも見つけられないかも知れないのに、
不格好に、今にも落ちそうに、でも精一杯丸く膨らんで赤く色づいて、主張している。
それは、もはや私のいのちそのものではないか。
烏瓜を見た瞬間、切実な思いに胸が締め付けられ、思わず迸る「あっ」。

この句は、まさにその「あっ」の速さで私の心に飛び込んできた。
そして決して抜けない針に刺されて、今も私の心にぶら下がっている。

この句が収められている句集「静かな水」は、殆ど旧仮名遣いで書かれているようだが、
「烏瓜」の句は現代仮名遣い、口語体で表記されている。
このスピード感を出すには口語体しかなかったと思う。
旧仮名遣いで「あつそれは」と書いてあれば、確実にスピードダウンしてしまう。
そして「わたし」も「いのち」も平仮名で一文字ずつ書いてあればこそ、
唯一無二の「わたし」であり、「いのち」であると感じさせるものになる。
正木ゆう子の句はどれも瑞々しく美しい。
やさしい語り口で、新鮮な驚きに満ちている。
私も、こんな句を作りたいと思う。
私には、こんな句は作れないと思う。
・・・そんな日々のせめぎ合いの中で、いつか私自身にも「あっ」と飛び込んでくる、
わたし自身のいのちの在り方があるのではないか。
それが見つかるような日々を送れるいいなと思いながら、今日を過ごしている。

句集「静かな水」より

春の山どうも左右が逆らしい
木をのぼる水こそ清し夏の月
月のまはり真空にして月見草
風音を千年聞きて滴れる
牡蠣すするわが塩味もこれくらゐ
炭火しづか無理難題の美しく
やがてわが真中を通る雪解川  

◆名句鑑賞始めます

うーーーー、長いこと、書きかけては挫折し、また書きかけては挫折している「名句鑑賞」。
ですが、このたび、『ハイポ掲示板』管理人の比々きさまから、
「俳句上達のために行っていること」を教えて頂き、意を新たにした次第です。
以下、引用をご了承頂きましたので、紹介致します。

++++++++++++++++++++++++++

私がやっていることは、俳句の先達が皆さんなさり、
勧めてくださっていることを、素直にやっているだけです。

①詠む:たくさん作ること(多作) 
俳ポには毎日必ず2句作って送っています。二週間で約30句。
他に「一句一遊」「愚陀仏庵」「現代俳句協会」「NHK」「櫂未知子の金曜俳句」など。

②読む:たくさん読むこと(多読) 
俳句関連本は勿論ですが、ツイッターで毎日二人の俳人の、
自分が面白いと思った句を発信しています。
発信するためには、必然的に調べ、読む作業が伴いますので、
これを毎日続けています。
俳句関連本も、ただ読むだけでなく、自分なりに要点をまとめて、
それを皆さんにもシェアしています。

③書く:秀句鑑賞を書いてみる 
櫂さんも、平井照敏さんも、みなさん勧めておられますが、
自分なりの「秀句集」を作っています。
記憶の歩留まりが悪い歳になってきましたので、
五感をできるだけ活用して「KUYOMI」というサイトを作り、
先のツイッターで挙げた俳人(もうすぐ300人になります)の句の中から
一人一句「勝手読み」して、書きつけています。
私の実感では、これが一番「急がば回れ」の上達法。おススメです。

④動く:月一回は吟行と句会に参加しています


私も月~金は仕事をしています。
自分なりのペースでこの4つを確実にやり続ければ、
俳句の神様も憐れんでくださり、微笑んでくださる、そんな気がします。


++++++++++++++++++++++++++

比々きさま、有難うございます!!!
このお言葉をしっかり胸に刻み、私も私なりのペースで「名句鑑賞」を始めることにしました。
不勉強・未熟の身ゆえ、失笑を買いそうなことばかり書いてしまいそうですが、
そんな時はビシバシと突っ込みを入れて頂ければと思っています。
どうぞよろしく、お願い致します・・・!